新自由主義と国家主義的傾向 (by 高杉公望)

 

 謎といえば謎のようなこととして、新自由主義者が往々にして国家主義的な傾向が強いという現象がある。謎めいているというのは、新自由主義は、本来、反国家主義的な傾向をもち、「小さな政府」論者であるからである。たとえば、新自由主義が戯画的に極端化された思想として、租税と国家を完全に廃止することを主張するリバタリアニズム、アナルコ・キャピタリズムといったものさえ現れているほどである。

 

 しかし、通常の新自由主義者は、ほとんどの場合、福祉国家切り崩しの側面では「小さな政府」を主導しながら、軍事・安全保障の面では「強い国家」を主導する傾向がある。

 

 これは、グローバリゼーションへの反作用としてナショナリズムがかならず台頭するというのとは、微妙に違っている。同一人物のなかに矛盾することなく新自由主義と国家主義的な傾向とが併存するのだからである。

 

 グローバリゼーションへの反作用として反グローバリズムとしてのナショナリズムなどが湧き起こるという社会現象と、同一人物のなかに新自由主義と国家主義的傾向とが併存するという思想現象とは、どのように絡まり合い、どのように無関係なものなのか。

 

 まず、もともと、自由主義と「国家」主義とは、相即的なものだということである。ただし、ここでいう「国家」とは、あくまでも自由な諸個人を基盤とする、いわば社会契約論的なフィクションを共同の幻想として選択しているような、英米仏型の立憲君主国か共和制国家のことである。

 

 諸個人の自由な行動が、法治国家のもとでの秩序によって制限されることを、社会的に契約し、そのような法治国家を構成すること constitution (=憲法)によって成立したとされているような、そのような起原神話を共有している「国家」のことである。

 

 このように自由と国家を相即的で一体のものとみる思想は、近代政治思想の主流をなしているものである。すなわち、ホッブスにはじまり、スピノザ、ロック、ルソー、カント、さらには一部に根強い誤解のあるヘーゲルにいたるまで、このような思想的な土俵を共通の前提として、その上で、思想的な差異が競われたのであった。

 

 ホッブスやヘーゲルが、それぞれ異なる意味合いにおいて、国家主義的な思想家と誤解されることの多いのも、法治国家のもとではじめて自由が開化するという考え方を強調しすぎたためであった。

 

 たしかに、このように古典近代的な政治思想の主流において、すでに自由主義と国家主義はワンセットのものとして展開されていたのであるから、現代における新自由主義が、やはり国家主義的傾向とワンセットで主張されること自体は、なんら不思議ではないことになる。したがって、現代アメリカにおけるいわゆる「ネオコン」(=新保守主義)というのも、思想的な文脈としてみれば、それ自体としては、古典近代的な政治思想のそのままの再現にほかならないともいえる。ただ、古典近代政治思想の原理主義過激派としてあらわれているところに、イスラム原理主義過激派のカウンターパート(似合いの敵方)として、両者相まって現代世界を困惑に落とし込んでいる問題があるのである。

 

 翻って、英米仏いがいの、ドイツよりあとに資本主義化した国々では、日本も含めて、どうしても、自由貿易で利益を得る層が、既存の土地貴族のような既得権益階層のうちの一部から生みだされてこざるをえなかった。そのために、自由貿易主義は、かならずしもその国の進歩的な勢力と一体化することはなかったのである。これは、現代でもおなじ構図が再生産されているといってよい。自由貿易論者は、既得権益階層の内部における勝ち組という、単純な弱肉強食論者であり、かれらの感性においては、単純な排外的ナショナリズムがごく自然なものとして染みついているのである。

 

 このことは、近年、第三世界から急激に経済発展しつつある国々−−韓国、台湾、シンガポール、ASEAN諸国、中国、そしてインド−−の、どこにでもあてはまる社会現象なのである。

 

 しかも、現代アメリカにおいては、国家主義に非常に強いアクセントをおいたネオコン型の新自由主義が思想的な影響力をもっとも強くもっている。そのために、ますます、アメリカいがいの国々の勝ち組エリート層は、英米仏型の国家主義と、それぞれの社会の伝統的・排外的なナショナリズム感情とを意識的という以上に無意識的に混同しながら、たんなる弱肉強食の論理としての自由貿易論、自由競争論を声高に主張するようになるのである。

 

 このような混同は、べつに悪気があってのことと考える必要のないことである。ホッブス、ロック、ルソー等々といった近代政治思想における「国家」と、みずからの伝統的社会における「国家」との相違を正確に理解するなどといったことは、大学の政治学の教員でもなければ、ごくわずかな人数の読書子のあいだにしか求めるべくもないというのは、残念ながら現実だからである。

 

 このために、ドイツや日本や新興工業諸国では、自由主義と構成的国家(立憲制国家)とが相即的にワンセットであるという、社会契約論的な政治思想が、それぞれの社会に特有の伝統的な思考回路や感性的な基盤にもとづいて、排外的ナショナリズムの色合いを強められて、バイヤスをかけられてしまうのである。

 

 再度翻って、なお、ここで注意しなくてはならないのは、英米仏といえども、教科書的なモデルに出てくるような完全に自由な諸個人からなる近代的な社会というわけではないということである。現実には、イギリスにもアメリカにもフランスにも、伝統的感情もあれば非合理主義的な要素もたくさんあるのである。

 

 このことは、世界システムというものが、国民国家という単体物のあつまりではなく、国民国家というひとつの政治的な国境線の内部にも、世界システム的な観点からみれば、中心的な地域や階層もあれば、周辺的な地域や階層もあるということによっているのである。

 

 イギリスには君主制と貴族院と地主階級が存在するし、アメリカには根強い人種差別が存在する。また、フランスは、自由と共和制の祖国と思いがちであるが、フランス革命以降も、王党派、ボナパルト派、共和政右派のあいだには、非常に根強い、ある意味ではわかりやすい排外的フランス至上主義や植民地帝国主義が存在し続けている。近年におけるル・ペン氏の国民戦線の台頭は、まったく新しい現象というわけではなく、フランス社会に脈々とつづいている一つの潮流が、周期的に頭をもたげてきたということであるらしい。

 

 したがって、英米仏といえども、教科書的な近代政治思想の模範解答だけで政治が動いているわけではない。したがって、新自由主義やネオコンの主張者、そしてそれ以上にその支持層のなかには、伝統的感情や非合理主義的要素をないまぜにしている者が少なからずいると考えるのが自然であろう。

 

  自由主義と国家主義がワンセットであらわれるということには、三つの要素があるわけである。

 

 第一には、近代政治思想の主流にみられるような、自由が確立するためには自由な諸個人の契約による構成的国家(=立憲制国家)が不可欠であるという考え方である。

 

 第二は、自由貿易によるグローバリゼーションが、必然的に敗者の側のナショナリズムを生み出すということである。

 

 第三は、同じく自由貿易によるグローバリゼーションにおいては、勝ち組による弱肉強食意識が、伝統的な排外的ナショナリズム感情と癒着しやすいということである。

 

 第二と第三の要素にあらわれる「国家」や「民族」は、第一の要素にあらわれる「構成的国家(=立憲制国家)」とはまったく異質である。だが、英米仏のような国々の政治家や知識人の間でさえも、両者がそれほど明確に分離されているわけではないということに注意しなくてはならないということである。ハンチントンの『文明の衝突』にみられるような白人優位主義の人種差別観は、やはりつきまとっている。

 

 厄介なのは、「構成的国家(=立憲制国家)」と自由主義のすぐれた機能的な側面が、白人文明の優越感とそれに対する劣等感や反発とないまぜになってあらわれる面である。それは、おそらく、フランシス・フクヤマのいう『歴史の終焉』がなかなかやってこないであろう原因でもあろう。(200385日)

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